言葉の圧力

 編集の仕事の一つに校閲(こうえつ)というものがあります。辞書を見ると「書類や原稿などの誤りを調べて加筆・訂正すること」とされていて、これがなかなか悩ましい仕事なのです。
 先日ある本の原稿を読んでいると「汚名を挽回するため」というフレーズが出てきました。この文章はワードを使って書いていますが、「汚名を挽回」と打った瞬間に《汚名返上/名誉挽回の誤用》という警告が画面に出てきます。間違った日本語の使い方の代表のように言われてきた事例ですが、最近はこの風向きが変わってきました。
 三省堂国語辞典(七版)で「汚名挽回は誤用ではない」と明記されたのです。「汚名を被った状態から、元の状態へと挽回する」のだから問題ない。「疲労回復」と同じ構造である。という主張です。
 ただし、先ほどのワードの機能同様、まだまだ一般的には誤用という認識の方が高いと思います。このまま通してしまうと「誤用である」という指摘を受ける可能性がありますから、著者には「間違いではありませんが」と言い訳しつつ「汚名をそそぐため」と修正させていただきました。

 間違いではないのに修正せざるを得ないというのは、言葉に対する一種の圧力があるからだと言えます。それが顕著に表れるのが「差別用語」です。
 身体・精神障害者に対して「障害者」を「障がい者」と表記する例が、近年急速に広がっています。私にとっては酷い違和感のある表記です。ちなみにワードの機能では、先ほどの「汚名挽回」には表現が間違っているという注意の青の波線が付きますが、「障がい者」に対しては、誤字やスペルミスを注意する赤の波線が付きます。
 害をひらがなとするのではなく、本来の「障碍(がい)者」と表記すべきだという主張もかなり古くからあり、現在は「障害者」「障がい者」「障碍者」の3つの表記が入り交じった状態になっています。「害」をひらがなにするのは、この漢字のマイナスイメージに配慮し、「障害者は社会の害ではありません」というポーズをとっているのですが、この表記に最も熱心なのが地方自治体だと言われています。
 2010年に国の障がい者制度改革推進会議は「「障害」の表記に関する検討結果について」で、「法令等における「障害」の表記について、現時点において新たに特定のものに決定することは困難であると言わざるを得ない」と総括しました。
 現状法律上は「障害者」表記ですから、国は当然その表記に従っているのですが、この制度改革推進会議は、あえてその名前に「障がい者」表記を採用しています。そこにこの問題の本質があるような気がします。
 これは実話ですが、先日、身体・精神障害とは全く関係のない、「さまたげとなるもの」という一般的な意味で「障がい」という表記を使っている文書を目にしました。背筋が寒くなるような衝撃とはこのことで、言葉に対する圧力の恐ろしさを実感しました。

 パソコンで日本語を入力する時には、大抵ワード系のMS IMEか、一太郎系のATOKという日本語入力システムを使います(もちろん他のシステムもあります)。こうしたシステムは差別用語・不快用語を変換できないようにしています。
 こちらに差別する意図がなくても関係なしなので、実に不便この上ありません。ドストエフスキーの名作『白痴』は一発変換できません。歴史関係では頻繁に出てくる「人夫」もダメです。「白雪姫と七人の小人」は「小人」が変換できません。「中華そば」はよくても「支那そば」は変換しません。「盲学校」は「もうがっこう」と入力すれば変換できますが、これを「めくら・がっこう」と入力すると同じ「盲学校」となるはずなのに、学校しか変換されません。
 「善悪はそれを用いる心の中にあり、科学者がよく用いる詭弁だ」とは、押井守監督作品でよく使われる科白ですが、日本語入力システムも「言葉の善悪はそれを用いる心の中にあり」という主張を詭弁と断じているのでしょう。人間が日本語を入力するための「支援」システムが、人間の使う言葉に圧力をかけている……それは本当に正しいことなのでしょうか。